1. 《2025年6月号》戦後80年 南城市の沖縄戦

《2025年6月号》戦後80年 南城市の沖縄戦

  1. 《2025年6月号》戦後80年 南城市の沖縄戦
戦後80年 南城市の沖縄戦

戦後、現在の馬天小学校前の県道137号線沿いは、アメリカ軍高官の住宅地などの軍事施設が建設され、「バックナービル」と呼ばれました。住民の家屋は取り壊され、米軍の兵舎などが並んでいます。(右写真、沖縄県公文書館所蔵。左写真は2025年の同地に近い地域の様子)

 

今いるこの場所で、何が起きたのか。

世界で続く戦争は、ニュース映像として私たちの日常を通り過ぎていきます。80年前、現在の南城市にあたる地域も、沖縄戦の舞台となりました。その記憶は、体験者の減少とともに、静かにその輪郭を失いつつあります。

遠い国の現在と、足元で起きた過去。ふたつの「実感の欠落」が重なり合う今、私たちはどのようにして戦争の実相を心に刻み、次の世代へと伝えていくことができるのでしょうか。

その問いに向き合う第一歩として、まずは「自分が暮らすこの場所で、かつて何が起きたのか」を知り、戦争の記憶を自分自身の中へ引き寄せてみましょう。

収容された住民 (1945年6月/沖縄県公文書館所蔵)
収容された住民 (1945年6月/沖縄県公文書館所蔵)

《戦前》軍と民間人が同乗した列車爆発事故

列車爆発地点(2020年撮影)
列車爆発地点(2020年撮影)

1944年12月、日本軍の部隊配備変更に伴い、部隊は県営鉄道(軽便鉄道)で移動。兵士や弾薬、資材のほか、女学生や男子中学生も同乗していました。

11日午後3時30分頃、大里村の稲嶺駅付近で列車が爆発。日本軍は民間人に対して「事故のことを口外するな」という箝口令を敷きました。亡くなった民間人の葬儀がどのようにおこなわれたのか、また補償があったのかについては、わかっていません。

《証言》糸数禧子さんの体験

(字目取真/1945年当時16歳) 『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』 p.31〜p.38の証言を再構成

迫る戦争、その直前にも惨禍

昭和19年12月11日、私は学校での看護講習を終え、家に帰るために、古波蔵駅から列車の2両目に乗った。3両目以降に兵隊が乗り、爆弾も積まれていた。 神里(現・南風原町)の近くに来たときに、列車が爆発した。火の粉が積んでいたガソリンに引火したようだった。すぐに汽車から飛び降りた。私の髪の毛は焼け、両手もただれるほど火傷をしてしまった。痕が戦後もずっと残った。

トラックで南風原村(現・南風原町)の陸軍病院に運ばれた。兵隊たちはみんな瀕死状態で、「殺してくれ」「寒い」と言っていた。「地獄というものはこういうものかな」と思った。一緒に乗っていた同級生一人や車掌さんも亡くなった。

死と隣り合わせの野戦病院

沖縄戦が始まると、私は梯梧(でいご)学徒隊に動員され、ナゲーラ壕(現・南風原町)に開設された野戦病院で勤務することになった。

便や尿、けがの臭いが漂い、負傷兵は常時200〜300人ほどいて、看護の人手は足りていなかった。私たちは包帯の交換や、傷口にわいたウジ虫の除去、排泄物の処理などのお手伝いをした。

壕の出入り口の近くには、艦砲射撃でできた穴に雨水がたまってできた池があった。私がそこへ足を洗いに行こうとした時、パーッと明るくなって攻撃を受け、みんな一斉に壕に入った。私の隣に立っていた同級生が「手が切れた!」と言い、治療室へ連れて行かれたが、爆弾の破片が肩から心臓に入ったようで10分ほどで亡くなった。爆弾は私が足を洗おうとした池に落ちたようだった。

死んだ人が羨ましかった

第三十二軍の司令部が首里から島尻に移動したという話が入ってきた。ある日、軍医が「家族のいる人は帰っても良い」と言ったので壕を出た。

私は夜間に南風原を通って大里に帰り、家族・親戚たちと合流して玉城村船越の大きな壕に避難した。ある日、糸数にアメリカ兵が上って行くのを見たと誰かが言った。私たちは大きな門中墓に避難し、その翌日に糸満の真壁に向かって逃げた。

ものすごい攻撃の中を家族と逃げ回る中、負傷し、ウジ虫がたくさんついた状態で這いずり回る兵隊を見た。彼の目つきが忘れられない。みんな自分のことに精一杯で、誰も助けようとしなかった。

このような死に方はしたくないと思っていたが、死体を見ると、どんな死に方でも「あぁ、羨ましいな」と思うようになった。

ある母親の苦渋の選択

真壁では、ある母親がけがをした12歳くらいの息子を置き去りにする場面に居合わせた。

母親は乳飲み子を背負い、5~6歳くらいの子どもの手を引いて荷物も持っていた。その母親は私の親戚に「うちの財産を全部あげるから、息子をおんぶして逃げてくれないか」と泣いて頼んだが、自分も死ぬかもしれない状況で誰も引き受けることはできなかった。

母親は、「せめて今無事な子どもだけでも」ということで、けがをした息子を置いて避難した。息子は「お母さん、捨てて行くのか」と言っていた。機関銃の攻撃を受けている中、本当に仕方がなくやったのだと思う。彼女を責めることはできない。

南部をさまよい捕虜に

※図はイメージです

真壁からは50人くらいの集団で北へ向かっていた。私の家族は「海岸の方から逃げよう」ということで集団から離れて歩きだした。集団から200メートルくらい離れたとき、弾が集団の真ん中に落とされて多くの人が亡くなった。ある人は腸が全部出てしまったらしい。

海岸の方に出ると、前方にアメリカ兵が立っていて、逃げようとすると後ろにも立っていた。逃げられず真ん中に座り込むと、アメリカ兵は「大丈夫、大丈夫」と言い、そこで捕虜になった。(※図はイメージです)

収容所、そして戦後の生活

捕虜になってから玉城村の當山に連れて行かれた。その後は知念村の志喜屋に移動することになっていたが、なるべく遠くに行きたくなかった。人混みに紛れて玉城村の百名に逃げた。

百名で1年ほど生活した後、船越の空き家で5年ほど暮らした。目取真の私の実家は、アメリカ軍の戦車で壊されたらしく、屋根の瓦が落ちていた。

船越にいた時、親慶原にあった知念ハイスクールヘ通っていた。卒業後は、玉城村の垣花にあった軍政府のサプライというところでタイプライターとして働いた。軍政府が1950年に米国民政府になってからも働き続け、計15〜16年ほど勤めた。

《疎開》学童疎開、親元から離れて九州へ

南城市域からの主な学童疎開先 (『南城市の沖縄戦 資料編』p.157より)
南城市域からの主な学童疎開先 (『南城市の沖縄戦 資料編』p.157より)

1944年7月、政府は沖縄県から県外や台湾へ疎開させることを決定。南城市域からは佐敷(375人)、玉城(170人)、大里第一(現・大里北小、約90人)の3つの国民学校から学童と引率関係者が九州各地(左図)へ疎開。

1946年10月に沖縄に帰るまでの約2年間、子どもたちは「ヤーサン(ひもじい)、ヒーサン(寒い)、シカラーサン(寂しい)」と表現される厳しい生活を強いられました。

《年表》

1894 ● 8月1日、日清戦争(〜1895年3月30日)
1895 ● 佐敷間切津波古村に中城湾需品支庫建設
1904 ● 日露戦争(〜1905年9月)
1914 ● 第一次世界大戦勃発(〜1918年11月11日)
1928 ● 玉城・知念•佐敷•第一大里•第二大里尋常高等小学校に昭和天皇・皇后の御真影が下賜される
1939 ● ドイツ軍、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦はじまる(〜1945年)
1940 ● 1月、玉城尋常高等小学校と知念尋常高等小学校が国民貯蓄運動の表彰を受ける
● この年、各地で紀元二千六百年奉祝記念事業実施
1941 ● 8月、中城湾臨時要塞、与那原に建設はじまる
● 12月8日、日本軍、ハワイの真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)
1942 ● 9月、中城湾臨時要塞重砲兵連隊第2中隊が知念半島に駐屯。ウローカー砲台やウフグスク陣地壕などを構築
1944 南城市域4村に日本軍の部隊を配備。また少なくとも7カ所の慰安所を設置
● 7月〜9月、九州へ学童疎開
● 8月22日、疎開船対馬丸、米軍潜水艦の攻撃を受け撃沈
● 12月、第9師団(武部隊)台湾へ抽出後、第62師団64旅団(石部隊)が知念半島に配備
1945 ● 2月1日、第62 師団64 旅団(石部隊)は首里西北および北方に移動、独立混成第44 旅団(球部隊)が知念半島に配備
● 2月〜3月、海上挺進基地大隊(暁部隊)や独立混成旅団など陸海軍部隊が相次いで防衛召集
● 2月〜3月、やんばるへ疎開。南城市域の住民は現在の金武町や宜野座村へ
● 3月、学徒隊が編成・配属
● 3月23日、米軍、南西諸島全域を空襲
● 3月24日、米軍の艦砲射撃始まる。知念半島にも艦砲射撃
● 4月1日、米軍、沖縄本島中部の嘉手納・北谷海岸に上陸
● 5月21日、米軍、運玉森南側斜面を占領。米軍、与那原に進攻
● 5月下旬〜6月上旬、嶺井に侵攻、雨乞森で戦闘。大里グスクでの戦闘
● 6月、大里第一国民学校が熊本県種山村、熊本県内野村へ再疎開
● 6月初旬、米軍が知念半島を制圧
● 6月初旬〜中旬、米軍が佐敷・玉城・知念・大里の各地で収容所開設
● 6月23日、第32 軍牛島司令官、長参謀長自決。第32軍の組織的戦闘終わる
● 7月2日、米軍、沖縄作戦終了を宣言
● 7月中旬〜8月、各地の収容所にいた人々がやんばるの収容所へ強制的に立ち退かされる
● 7月下旬〜12月、各地に初等学校開校
● 8月14日、ポツダム宣言受諾
● 9月、知念市の発足
● 10月、玉城村民が金武村から知念市へ移送される。以後、やんばるの収容所にいる南城市域出身の住民は知念市へ移送
● 11月16日、知念高等学校設立
1946 ● 1月、やんばるの収容所から知念市内への移送が落ち着く
● 10月、学童疎開児・一般疎開者、沖縄への引き揚げ始まる

※「日米最後の戦闘」によると、牛島司令官、長参謀長の自決は6月22日。

《収容所》避難民でひしめく収容所の厳しい生活

百名孤児院の男児(1949年/沖縄県公文書館所蔵)
百名孤児院の男児(1949年/沖縄県公文書館所蔵)

1945年6月以降、アメリカ軍は知念半島各地に民間人収容所を設置。投降した避難民を次々に収容していきました。テントに入ることができない人々も多く、厳しい暮らしが続きました。

百名収容所では、戦災孤児や身寄りのない高齢者などを収容する孤児院・養老院も開設されました。

知念半島に開設された収容所

… 六月初旬に開設された収容所
… 六月中旬に開設された収容所
…文書や書籍では確認できないが  体験談や米軍の写真に出てくる収容所

米軍の資料や住民の体験談の中で出てきた収容所を地図にまとめたものです。資料や体験談からは、収容所が開設された字の名前しかわからない場合が多いため、地図上で示されている地点に収容所があったというわけではないことにご留意ください。 (『南城市の沖縄戦 資料編』p.640より)

知念半島に開設された収容所
知念半島に開設された収容所

《継承》地域の記憶をつなげる、南城市の取り組み。

これまで、平和教育を実践する学校現場では、戦争体験者を招いた講話などが行われてきました。しかし、戦後80年が経過し、沖縄戦の体験者を学校に招く機会が年々難しくなっています。

南城市教育委員会では、そうした現場の課題に対応し、教員のサポートにつなげるため、市内の小中学校で平和教育を担当する教員を対象に「平和教育担当者連絡会」を開催しました。

ファシリテーターとして登壇した山口剛史教授(琉球大学教育学部)は、「沖縄戦は地域ごとに異なる体験がある。自分たちの校区における戦争の記憶を掘り起こして授業に活かしてほしい」と強調。また、資料活用のポイントとして、共有されたワークシートを活用した授業作りの具体例も紹介しました。

これまでとは異なる形の戦争体験の継承・平和学習の模索がはじまっています。

ワークショップの様子
各学校の取り組みや課題を共有。こうした共有の場は、他校の工夫を参考にしたり、新たなヒントを得たりする貴重な機会となりました。地域に根差した資料の活用など、新たな工夫が求められています。 (2025年4月30日/南城市役所)

書籍の紹介

南城市教育委員会では「南城市の沖縄戦」として「証言編 -大里-」および「資料編」を刊行し、文化課窓口で販売しております。本特集に掲載されている内容は、こちらでより詳しくご覧いただけます。この他、旧町村にて刊行された「町史」「村史」における戦争記録は市立図書館などでご覧いただけます。

  • 『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』

    『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』

  • 『南城市の沖縄戦 資料編』

    『南城市の沖縄戦 資料編』

市指定文化財の戦争遺跡

南城市では市指定文化財(史跡)として上記の戦争遺跡を指定しています。「南城市の沖縄戦 資料編」には、その他の戦争遺跡も掲載されています。地域にまつわる証言を読み、現地に足を運ぶことで、よりリアルに戦争の記憶を受け継ぐことができるのではないでしょうか。

  • ウローカーの砲台跡

    ウローカーの砲台跡

  • 前川民間防空壕群

    前川民間防空壕群

デジタルアーカイブの活用

南城市の沖縄戦 証言の朗読 証言者:糸数禧子(朗読:井上あすか)
南城市の沖縄戦 証言の朗読
証言者:糸数禧子(朗読:井上あすか)

南城市教育委員会が運営しているウェブサイト「なんじょうデジタルアーカイブ」では、南城市の沖縄戦に関する動画コンテンツを視聴することができます。解説動画や証言の朗読、文化課がサポートした平和学習の様子などを公開しています。

このページは秘書防災課が担当しています。

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