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2019年10月末日現在(先月比)
人口 | 44,232人 (+20) |
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女 | 21,964人 (△2) |
男 | 22,268人 (+22) |
世帯数 | 17,976戸 (+39) |
過去データ | (行政区分ごと) |
※外国人登録含む
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2017年3月29日
南城市指定無形民俗文化財 |
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無形民俗文化財 |
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無形民俗文化財 |
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南城市指定無形民俗文化財 |
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南城市指定無形民俗文化財 |
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[大城大軍]無形民俗文化財 |
アクセス:古堅入口バス停下車5分
●ミルクの招福旧暦4月1日に行われる古堅区の豊年祭ではミーミンメーが行われる。その構成は、ミルク、老夫、老婆、ミーミンメーの踊り手の子供達からなっており、それ以外に棒術や琉舞が演ぜられる。 |
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当初、ミーミンメーはアラバタアラシー(荒畑競争)、スリチラーアラシー(芭蕉布競争)などと呼ばれていた。
それは、麦の収穫を終えた区民の慰労会のようなものから始まったものが、段々と子孫繁栄の意味合いをもつものへと変化していった。
アラバタアラシーとは集落の畑を何組かに分け、どの組が先に耕すかという勝負をさせ、勝った組に酒をふるまう行事であった。
また、その頃は冬物から夏物へと着物が変わる時期であり、妻は夫の着ている着物の織り方、柄などの出来上がり具合いで腕を競いあったことからスリチラーアラシーとも呼ばれていた。
戦後まもなく、子孫繁栄や区の神々に感謝をする意味合いでミルク(弥勒)を作り直し、踊りを中心に棒術(ファイファー棒)も演じられるようになったものが現在のミーミンメー(豊年祭)である。
ミーミンメーがいつ始められたかは定かではないが、地元の話では1834年頃から始まったのではないかといわれている。
それは、赤田の首里殿内で行われているミーミンメーをみた区の人がこれを真似て、区で行ったとの伝承があるからである。
これは、首里や首里殿内に古堅区の多くの人達が奉公人として働いていたことからきているようである。
無形民俗文化財に指定されている本島南部南城市大里古堅区の伝統行事「ミーミンメー」。
毎年旧暦4月1日の夕方から区民総出の下、また村内外から多くの見物客とともにこの伝統行事は賑わいをみせる。
「ミーミンメー」は昔、アラバタアラシー(荒畑競争)、スディチラアラシー(芭蕉布織り競争)と呼ばれ、畑を耕す競争や主婦が夫のためにつくったバサージン(芭蕉衣)のでき具合を競った行事だったという。
今では子孫繁栄、豊作を祈願する伝統行事として受け継がれており、子どもたちのかわいい「ミーミンメー」踊りが披露される。
チャンチャンコ姿に鉢巻して、ジンナーク(5円玉をつけた棒)を持ち、「ミーミンメー、ミーミンメー、シーヤープー、シーヤープー」とかわいい踊りをするのだ。
踊りに引き続き旗頭を先頭にウスメー(翁)、ハーメー(婆)に導かれたミルク(弥勒)、区民がお宮、公民館、アシビナー、アシビモーの順に道を練り歩く道ジュネーをして、各場所で子どもたちの踊りと青年たちによる古堅区独特のファイファー棒、六尺棒なども披露される。
アクセス:目取真バス停下車5分
目取真の綱曳は旧暦の7月16日(ウークイ)の日に馬場(ウマイー:農村公園として整備されている)で行われる。
目取真の綱曳の特徴は、真夜中の午前0時に綱曳を行うことである。一般的には夕方からガーエーは始まり、7時頃から綱曳が始まるが、目取真の場合は10時頃からガーエーが始まり、午前0時頃に綱曳が始まり、午前1時頃に終える。現在はもう少し早く行われるようになっている。
夜綱は沖縄でもほとんどみられないことから、目取真の綱曳は県内でも著名な綱曳の一つに数えられる。
ガーエーで用いられるトゥール(旗頭)も有名で、現在は閉館した海洋博の沖縄館には目取真と大城のトゥールが展示されていた。トゥールは西が太鼓と菊、東が太鼓と桜の各二本づつであり、トゥールにはロウソクを入れ、明かりが灯されている。
旗は、西が「辰農」の文字と獅子の絵で、東が「豊年」の文字と虎の絵となっており、絵は山田真山氏、書は金城安太郎氏によってかかれたものであったが、ともに色が褪せたため、平成5年に複製し、現在はそれを使用している。
綱曳は、区民の士気高揚と五穀豊饒・無病息災を祈願して行われている。その由来は、「昔、力勝負などの勝負事が盛んになされていた頃、東当森前の兄弟2人が東西に分かれて綱曳勝負をし、勝敗を決した」という話が残されている。これにより、綱曳の時には今でも東当森前の人達は、兄の東当森前は西で、弟をナーカムートゥとする前蔵前は東で綱を曳いている。
また、目取真の綱曳の組分けは、単なる居住区域のみで分けているわけではなく、7つの元屋を中心に分けられている。西が東当森前、真栄田毛、下門、西表など、東が万徳、宮城、前蔵前などである。このように、先祖で分ける例は、島尻地域に特徴的にみられる。
アクセス:大城バス停下車5分
●華麗なトゥール大城の綱曳は豊年を祈願して旧暦6月26日のアミシの御願と旧暦7月16日(ウークイ)の翌日の年2回に行われる。 |
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大城の綱曳は、10年に一度支度綱を行う。
支度綱は旧盆の日の綱曳の際に行い、東西の綱に組踊の登場人物の衣装をまとった人を三人づつ乗せて、東西から馬場までガーエーとともに行進し、カヌチ棒を入れ、綱を曳き始める間際まで綱の上に乗っている。
綱曳の由来は、定かでないが、一説によれば「ある年、稲が不作のうえ害虫が発生したため途方に暮れているとき、山野に放置していた父親(当時60歳を越えた人を畦の下に置く風習があった)に相談した所、『村民総出で太鼓を打ち鳴らし、松明を振りかざし綱を曳け、そうすれば害虫は死んでしまう』と教えられ、その通り実行した所、害虫がみな水に溺れて死んでしまい、その結果豊作となった」というような虫払い型の伝承が残っている。
大綱引きは、豊年を祈願して旧暦6月26日(アミシの御願)と旧盆ウークイ(16日)の翌日の年2回行われる。色彩豊かな旗頭がドラ、ホラの音の中で中天に乱舞する様は、華麗で勇壮そのもの、綱引きに参加する村人の心意気を昂らせる。
アクセス:当間バス停下車5分
●獅子とは獅子は百獣の王だとか、霊獣であると考えられている。 |
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獅子舞は、区の祭祀のときに行われ、獅子の神はなかなか勇壮快活で遊びが非常に好きだとして、三線、鐘、太鼓をならして若者が面をかぶり、獅子に扮して踊りはねるというものであった。
当間の獅子舞は、約180年前に始まったといわれている。その由来は、当時区において疫病が流行し、多数の死者が出たので、その厄祓いと五穀豊饒・子孫繁栄を祈願して旧暦の7月17日(ヌーバレー)と8月15日(十五夜)の年2回行われるようになった。
ヌーバレーはお盆で先祖を送った喜びを区民一同で味わうと同時に悪霊を追い祓うという意味で演じられ、十五夜の獅子舞は村芝居として発展していった。
獅子舞は、ワクヤーが獅子を挑発して誘い出し、誘い出された獅子が威嚇して四方の舞台一杯を活用し、ダイナミックに勇壮に舞う。その演技の特徴は、チチィジャシ、スバトゥンジ、ウーマーイ、ユチー、シラングイ、カクジスチン等の豊富な芸種とこまやかな芸、足運びの動作にある。
沖縄文化史料集成5 球陽 原文編、沖縄風土記全集第四巻 南風原村・大里村・与那原町編 によると、同治5年(1866年)に最後の琉球国王尚泰即位の際に派遣された冊封使一行の前で獅子舞を演じ賞賛を受けたとされている。戦後一旦途絶えていたが、昭和32年に獅子を製作し、区の伝統行事として復活した。
250年以上の伝統がある当間の獅子舞は旧暦の7月17日のヌーバレーと旧8月15日の十五夜に行う。
アクセス:稲嶺バス停下車2分
●十五夜祭り獅子舞は、悪霊を払い、五穀豊饒と共同体構成員の繁栄がもたらされるという考えとともに中国から伝わってきたといわれている。 |
獅子舞は、旧暦の8月13日~15日にかけて行われる十五夜遊び、別名獅子ぬうとぅいむち(おもてなし)で演じられている。
獅子舞の上演場所は、村屋(現公民館内の舞台)、根屋(庭の仮設舞台)、獅子毛(農村公園の仮設舞台)で行われ、14日には根屋で、15日には獅子毛で行われている。
15日の豊年祭では、道ジュネーが行われ、ウドゥイ屋・獅子屋・村屋・根屋・獅子毛の順に巡って、獅子毛の舞台の上座に獅子が座し、豊年祭がとり行われる。
獅子舞の演技は、獅子舞の前に舞方棒が演じられた後、三線と銅鑼の音によって、まず獅子舞をあやつる人物が丸い餌のを使って、獅子を誘いだし、誘いにのって獅子が舞台に現れ、舞いが始まる。
舞いの型には、胴体のかゆい箇所をかくしぐさを表現する舞や舞台の四隅に走り寄る舞、蛇が怒って立ち上がる様を表現した舞、唐手の型になざらえての舞、悦に入った喜びを表現する舞などがあげられる。
戦後、獅子頭が焼けてしまったため新たに獅子頭を造り直し、獅子舞を行っている。その後、昭和40年に獅子頭を、平成11年に獅子の毛を造り直し、現在に至っている。
また、獅子舞自体は行われないが、旧盆の7月15日に行われる綱曳の前にも豊年祭と同様の道順で道ジュネーが行われ、その後舞方棒が村屋で演じられる。その後、ガーエーが始まり、続いて綱曳が行われる。
アクセス:大城バス停下車5分
●忠孝と敵討ち大城の組踊「大城大軍」は、大城区独自の組踊であり、大城区に残る伝承を基として創作されたものである。 |
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組踊の上演は、他の地方同様に明治になってから、村芝居の中の一つの演目として、「大城崩」を基礎としながら、区に残る伝承を中心にして新たに作り直した区独自の組踊を昭和21年まで毎年行っていたが、戦後の混乱の中で途絶えてしまった。
その後、昭和63年に台本が普天間俊夫氏の手元にあることが確認され、それをきっかけとして、当時の出演者である地元の古老等の指導を受け、平成元年に43年振りに復活した。
その出演者は19名を数え、他の組踊に比べても出演者の数が多く、そのため用いる衣装や小道具類も同様に他の組踊に比べて多くなっているのが、特徴の一つとなっている。
現在では後継者育成のために台詞の読み合わせや立ち回りの練習が行われており、その結果を不定期ながら上演し、好評を得ている。
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