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伝統文化

2017年3月29日

大里地区無形文化財

大里地区無形文化財

古堅のミーミンメー

南城市指定無形民俗文化財

目取真の綱曳

無形民俗文化財

大城の綱曳

無形民俗文化財

当間の獅子舞

南城市指定無形民俗文化財

稲嶺の獅子舞

南城市指定無形民俗文化財

大城の組踊

[大城大軍]無形民俗文化財

古堅のミーミンメー 南城市指定無形民俗文化財

アクセス:古堅入口バス停下車5分

●ミルクの招福

旧暦4月1日に行われる古堅区の豊年祭ではミーミンメーが行われる。その構成は、ミルク、老夫、老婆、ミーミンメーの踊り手の子供達からなっており、それ以外に棒術や琉舞が演ぜられる。
ミーミンメーの祭りは、ミルクを中心に踊り手の子供達や棒術の青年達がウフティラ(元屋)、お宮、公民館、イリジョウのアシビナー、ウマイーグヮの順にその都度、演舞しながら道ジュネーを行う。

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●結束を高める

当初、ミーミンメーはアラバタアラシー(荒畑競争)、スリチラーアラシー(芭蕉布競争)などと呼ばれていた。
それは、麦の収穫を終えた区民の慰労会のようなものから始まったものが、段々と子孫繁栄の意味合いをもつものへと変化していった。
アラバタアラシーとは集落の畑を何組かに分け、どの組が先に耕すかという勝負をさせ、勝った組に酒をふるまう行事であった。
また、その頃は冬物から夏物へと着物が変わる時期であり、妻は夫の着ている着物の織り方、柄などの出来上がり具合いで腕を競いあったことからスリチラーアラシーとも呼ばれていた。
戦後まもなく、子孫繁栄や区の神々に感謝をする意味合いでミルク(弥勒)を作り直し、踊りを中心に棒術(ファイファー棒)も演じられるようになったものが現在のミーミンメー(豊年祭)である。

●その由来

ミーミンメーがいつ始められたかは定かではないが、地元の話では1834年頃から始まったのではないかといわれている。
それは、赤田の首里殿内で行われているミーミンメーをみた区の人がこれを真似て、区で行ったとの伝承があるからである。
これは、首里や首里殿内に古堅区の多くの人達が奉公人として働いていたことからきているようである。
無形民俗文化財に指定されている本島南部南城市大里古堅区の伝統行事「ミーミンメー」
毎年旧暦4月1日の夕方から区民総出の下、また村内外から多くの見物客とともにこの伝統行事は賑わいをみせる。
「ミーミンメー」は昔、アラバタアラシー(荒畑競争)スディチラアラシー(芭蕉布織り競争)と呼ばれ、畑を耕す競争や主婦が夫のためにつくったバサージン(芭蕉衣)のでき具合を競った行事だったという。
今では子孫繁栄、豊作を祈願する伝統行事として受け継がれており、子どもたちのかわいい「ミーミンメー」踊りが披露される。
チャンチャンコ姿に鉢巻して、ジンナーク(5円玉をつけた棒)を持ち、「ミーミンメー、ミーミンメー、シーヤープー、シーヤープー」とかわいい踊りをするのだ。
踊りに引き続き旗頭を先頭にウスメー(翁)、ハーメー(婆)に導かれたミルク(弥勒)、区民がお宮、公民館、アシビナー、アシビモーの順に道を練り歩く道ジュネーをして、各場所で子どもたちの踊りと青年たちによる古堅区独特のファイファー棒、六尺棒なども披露される。

目取真の綱曳 無形民俗文化財

アクセス:目取真バス停下車5分

●夜綱

目取真の綱曳は旧暦の7月16日(ウークイ)の日に馬場(ウマイー:農村公園として整備されている)で行われる。
目取真の綱曳の特徴は、真夜中の午前0時に綱曳を行うことである。一般的には夕方からガーエーは始まり、7時頃から綱曳が始まるが、目取真の場合は10時頃からガーエーが始まり、午前0時頃に綱曳が始まり、午前1時頃に終える。現在はもう少し早く行われるようになっている。
夜綱は沖縄でもほとんどみられないことから、目取真の綱曳は県内でも著名な綱曳の一つに数えられる。

●トゥールが舞う

ガーエーで用いられるトゥール(旗頭)も有名で、現在は閉館した海洋博の沖縄館には目取真と大城のトゥールが展示されていた。トゥールは西が太鼓と菊、東が太鼓と桜の各二本づつであり、トゥールにはロウソクを入れ、明かりが灯されている。
旗は、西が「辰農」の文字と獅子の絵で、東が「豊年」の文字と虎の絵となっており、絵は山田真山氏、書は金城安太郎氏によってかかれたものであったが、ともに色が褪せたため、平成5年に複製し、現在はそれを使用している。

●兄弟で勝負

綱曳は、区民の士気高揚と五穀豊饒・無病息災を祈願して行われている。その由来は、「昔、力勝負などの勝負事が盛んになされていた頃、東当森前の兄弟2人が東西に分かれて綱曳勝負をし、勝敗を決した」という話が残されている。これにより、綱曳の時には今でも東当森前の人達は、兄の東当森前は西で、弟をナーカムートゥとする前蔵前は東で綱を曳いている。
また、目取真の綱曳の組分けは、単なる居住区域のみで分けているわけではなく、7つの元屋を中心に分けられている。西が東当森前、真栄田毛、下門、西表など、東が万徳、宮城、前蔵前などである。このように、先祖で分ける例は、島尻地域に特徴的にみられる。

大城の綱曳 無形民俗文化財

アクセス:大城バス停下車5分

●華麗なトゥール

大城の綱曳は豊年を祈願して旧暦6月26日のアミシの御願と旧暦7月16日(ウークイ)の翌日の年2回に行われる。
綱曳は、トゥール(旗頭)を先頭に綱が続き、周囲を銅鑼や鐘を拍子とする女踊りが舞うガーエーが見所であり、トゥールは綱曳のシンボルとなっている。
トゥールの特徴は、色彩豊かで、華麗な点であり、目取真のトゥール同様、沖縄館で展示されていた。
トゥールは東西に一番旗、二番旗がある。東の一番旗には孔雀の頭に「氣晴」の文字(以前の旗は「豊年」とされていたが、元々の文字に戻した)、二番旗には水菖蒲の頭に「獅子と牡丹」の絵が、西の一番旗には軍配の頭に「振威」の文字、二番旗には菊の頭に「虎と竹」の絵となっている。これは、平成10年に50年振りに新調したもので、絵は與那覇朝大氏、書は宮城政夫氏によるものである。以前のものは、絵は山田真山氏、書は山城正忠によるもので、現在は区で保管している。

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●支度綱

大城の綱曳は、10年に一度支度綱を行う。
支度綱は旧盆の日の綱曳の際に行い、東西の綱に組踊の登場人物の衣装をまとった人を三人づつ乗せて、東西から馬場までガーエーとともに行進し、カヌチ棒を入れ、綱を曳き始める間際まで綱の上に乗っている。

●害虫駆除を願う

綱曳の由来は、定かでないが、一説によれば「ある年、稲が不作のうえ害虫が発生したため途方に暮れているとき、山野に放置していた父親(当時60歳を越えた人を畦の下に置く風習があった)に相談した所、『村民総出で太鼓を打ち鳴らし、松明を振りかざし綱を曳け、そうすれば害虫は死んでしまう』と教えられ、その通り実行した所、害虫がみな水に溺れて死んでしまい、その結果豊作となった」というような虫払い型の伝承が残っている。

●大城の綱引きと旗頭

大綱引きは、豊年を祈願して旧暦6月26日(アミシの御願)と旧盆ウークイ(16日)の翌日の年2回行われる。色彩豊かな旗頭がドラ、ホラの音の中で中天に乱舞する様は、華麗で勇壮そのもの、綱引きに参加する村人の心意気を昂らせる。

当間の獅子舞 南城市指定無形民俗文化財

アクセス:当間バス停下車5分

●獅子とは

獅子は百獣の王だとか、霊獣であると考えられている。
そこから、その威力をあがめ、尊厳なものと信じて、獅子を舞わせることによって、あらゆる厄災や悪霊が祓われるといわれている。
獅子像の威力はもともと精気返し、悪霊除けであった。それが今では、豊作物の保護神ともなり、火災除け、疫病退治の神とも言われている。

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 ●獅子舞

獅子舞は、区の祭祀のときに行われ、獅子の神はなかなか勇壮快活で遊びが非常に好きだとして、三線、鐘、太鼓をならして若者が面をかぶり、獅子に扮して踊りはねるというものであった。
当間の獅子舞は、約180年前に始まったといわれている。その由来は、当時区において疫病が流行し、多数の死者が出たので、その厄祓いと五穀豊饒・子孫繁栄を祈願して旧暦の7月17日(ヌーバレー)と8月15日(十五夜)の年2回行われるようになった。
ヌーバレーはお盆で先祖を送った喜びを区民一同で味わうと同時に悪霊を追い祓うという意味で演じられ、十五夜の獅子舞は村芝居として発展していった。
獅子舞は、ワクヤーが獅子を挑発して誘い出し、誘い出された獅子が威嚇して四方の舞台一杯を活用し、ダイナミックに勇壮に舞う。その演技の特徴は、チチィジャシ、スバトゥンジ、ウーマーイ、ユチー、シラングイ、カクジスチン等の豊富な芸種とこまやかな芸、足運びの動作にある。
 沖縄文化史料集成5 球陽 原文編、沖縄風土記全集第四巻 南風原村・大里村・与那原町編 によると、同治5年(1866年)に最後の琉球国王尚泰即位の際に派遣された冊封使一行の前で獅子舞を演じ賞賛を受けたとされている。戦後一旦途絶えていたが、昭和32年に獅子を製作し、区の伝統行事として復活した。
250年以上の伝統がある当間の獅子舞は旧暦の7月17日のヌーバレーと旧8月15日の十五夜に行う。

稲嶺の獅子舞 南城市指定無形民俗文化財

アクセス:稲嶺バス停下車2分

●十五夜祭り

獅子舞は、悪霊を払い、五穀豊饒と共同体構成員の繁栄がもたらされるという考えとともに中国から伝わってきたといわれている。
豊年祭の第一番目の演目として舞台で舞われ、座を清めるとともに邪気を払うとされている。
稲嶺の獅子舞は、四百年程の伝統をもつと伝えられており、区の守り神と火ゲーシ(火災予防)の守り神として獅子を祀っている。

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●演舞の内容

獅子舞は、旧暦の8月13日~15日にかけて行われる十五夜遊び、別名獅子ぬうとぅいむち(おもてなし)で演じられている。
獅子舞の上演場所は、村屋(現公民館内の舞台)、根屋(庭の仮設舞台)、獅子毛(農村公園の仮設舞台)で行われ、14日には根屋で、15日には獅子毛で行われている。
15日の豊年祭では、道ジュネーが行われ、ウドゥイ屋・獅子屋・村屋・根屋・獅子毛の順に巡って、獅子毛の舞台の上座に獅子が座し、豊年祭がとり行われる。
獅子舞の演技は、獅子舞の前に舞方棒が演じられた後、三線と銅鑼の音によって、まず獅子舞をあやつる人物が丸い餌のを使って、獅子を誘いだし、誘いにのって獅子が舞台に現れ、舞いが始まる。
舞いの型には、胴体のかゆい箇所をかくしぐさを表現する舞や舞台の四隅に走り寄る舞、蛇が怒って立ち上がる様を表現した舞、唐手の型になざらえての舞、悦に入った喜びを表現する舞などがあげられる。
戦後、獅子頭が焼けてしまったため新たに獅子頭を造り直し、獅子舞を行っている。その後、昭和40年に獅子頭を、平成11年に獅子の毛を造り直し、現在に至っている。
また、獅子舞自体は行われないが、旧盆の7月15日に行われる綱曳の前にも豊年祭と同様の道順で道ジュネーが行われ、その後舞方棒が村屋で演じられる。その後、ガーエーが始まり、続いて綱曳が行われる。

大城の組踊 [大城大軍]無形民俗文化財

アクセス:大城バス停下車5分

●忠孝と敵討ち

大城の組踊「大城大軍」は、大城区独自の組踊であり、大城区に残る伝承を基として創作されたものである。
組踊の内容は、「大城按司(真武)が島添大里按司との戦いに敗れた後、大城按司の子である若按司(真宗)とその妹が守役の外間子に助けられ、彼の故郷である玉城村の垣花に隠れ住み、さらに島添大里按司の捜索から逃れるために那覇の儀間胡城(現、那覇市垣花)に移り、隠れ住んで島添大里按司への仇討ちの機会を狙っていた時、外間子が住吉神社で仇討ちの願かけを行った所、近いうちに佐敷按司(尚巴志)が、大里グスクの攻略を企てているので協力して戦えば仇討ちがかなうと教えられ、若按司と共に佐敷按司を訪ね、共に協力して島添大里按司を討つことを約束し、2日後夜陰に乗じて、島添大里グスクに忍び込み、島添大里按司と敵将の内原子を捕らえ、仇討ちを無事行った」というものであり、田里朝直作の「大城崩」と若干内容を異にしている。

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●組踊復活まで

組踊の上演は、他の地方同様に明治になってから、村芝居の中の一つの演目として、「大城崩」を基礎としながら、区に残る伝承を中心にして新たに作り直した区独自の組踊を昭和21年まで毎年行っていたが、戦後の混乱の中で途絶えてしまった。
その後、昭和63年に台本が普天間俊夫氏の手元にあることが確認され、それをきっかけとして、当時の出演者である地元の古老等の指導を受け、平成元年に43年振りに復活した。
その出演者は19名を数え、他の組踊に比べても出演者の数が多く、そのため用いる衣装や小道具類も同様に他の組踊に比べて多くなっているのが、特徴の一つとなっている。
現在では後継者育成のために台詞の読み合わせや立ち回りの練習が行われており、その結果を不定期ながら上演し、好評を得ている。

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2011年9月26日

玉城地区無形文化財

玉城地区無形文化財

親田御願(ウェーダウガン)

南城市指定無形民俗文化財

稲摺節(イニシリブシ)

南城市指定無形民俗文化財

百名の長者の大主

南城市指定無形民俗文化財

前川の長者の大主

南城市指定無形民俗文化財

前川の寄鍬(ユシグェー)

南城市指定無形民俗文化財

前川のアヤグ

南城市指定無形民俗文化財

玉城の獅子舞

南城市指定無形民俗文化財

志堅原の醜童(シュンドウ)

南城市指定無形民俗文化財

親田御願(ウェーダウガン) 南城市指定無形民俗文化財

親田(ウェーダ)御願の由来

仲村渠に伝わる伝説によると、未だ沖縄の人々が稲という穀物を知らない昔、仲村渠の屋号アマスの祖先であるアマミツ(仲村渠の古老によると、開闢神話のアマミキヨとは別人とされている)が中国の使者として琉球から遣わされ、彼の地から稲を持ち出そうとしたが中国では持ち出し禁止のため果たせず、その後に伊波按司(うるま市石川伊波集落の屋号ナカジョーの祖先といわれる)と言う人が中国へ使者として遣わされた時に再び請うて彼地の役人の機知により、示し合わせて鶴をもらい受け琉球に帰った。そして伝書鳩のように飼いならして、中国に飛ばして、ついには密かに中国から稲を持ち出せるのに成功したという。
その鶴がアマベー(嵐)にあい落下したところがメーヂであり、鶴を探させるために仮小屋を建てて住まった所が、百名の東方にある伊波ガーの付近であるという。井戸の名は伊波按司の名前にちなんでいるとされ、その一帯をイハガー原と呼ばれている。
メーヂで芽を出した稲は水の豊富な受水走水の周辺のミフーダに移され、仲村渠の屋号アマスのアマミツと、字百名の屋号アシト(安里)、及びウフメー(大前)の先祖三人がそれぞれの方法で栽培を試み協力しあって、終に成功にこぎつけたと伝えられている。
かつてはこのウェーダの日に字仲村渠から、アシトゥとウフメーにウンサクが供えられたという。
戦前まで、このウェーダ御願の行事が済まないと、この地方一帯の田植えは始まらなかったといわれる。

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●沿革

伊波普猷は、昭和10年に講演した内容を、翌年訂正増補した論文「南島の稲作行事について」の中で、奄美諸島の徳之島や鬼界島にもアマーウェーダのクェーナが残っているので、慶長の役(1609年)以前からこの行事は各地にあったと断言しておられる。
また山内盛彬も、その著書「琉球王国古謡秘曲の研究」に仲村渠のクェーナとともに浦添の字沢岻と字西原のアマーウェーダを収録しておられる。
以上のことから、この行事は、およそ380年も前からすでに南西諸島一帯に広く行われていたものと考えられる。
しかしながら、これらクェーナは現在歌われているところはほとんどないとみられ古謡であるアマーウェーダのクェーナが、仲村渠で現在でも歌い継がれているということはきわめて重要である。
仲村渠では戦後はウェーダの行事は関係拝所に止まり、田植えの儀式やクェーナの歌が省略されていた。
部落行政に祭祀委員会が設置された後、1989年(平成元年)から従来の関係拝所の拝みだったのに加えて、田植えの儀式や、ユーエーモーでの四方拝、クェーナ、倉元屋敷での予祝などを復活した。

●現況

親田御願(ウェーダウガン)は、字仲村渠において、戦後はウェーダの行事は関係拝所に止まり、田植えの儀式やクェーナの歌が省略されていた。
区行政に祭祀委員会が設置された後、1989年(平成元年)から従来の関係拝所の拝みだったのに加えて、田植えの儀式や、ユーエーモーでの四方拝、クェーナ、倉元屋敷での予祝などを復活している。
現状となると、

  1. 社会状況の変化により、戦前の行事のやり方から次のような変化が生じてきている。
  2. 従来、ニーチュ(根人)がおこなっていた稲の苗作り、及び仲村渠のミフーダがなくなったことにより、仲村渠祭祀委員の人が儀式用に自宅で苗作りをしている。
  3. 祭祀用の供物入れのウクファンが重箱に変わった。
  4. クェーナの伝授も未だ十分といえない。また「立グェーナ」も本来は帰途に歩きながら歌うものであるが、現在は乗用車の利用により、ユーエーモーで少々歌われる程度である。
  5. 屋号倉元(現在の我那覇前の屋敷)での予祝は前庭に円陣をかいて廻りながら予祝の歌を歌っているが、本来なら稲マジンの周囲を廻るやり方である。

この親田御願では祭礼の中で行われる行事として価値が高い。
※親田御願は字百名の親田、ユーエーモーで行われるが、継承団体は字仲村渠である。

稲摺節(イニシリブシ) 南城市指定無形民俗文化財

●稲作発祥地の一つ

稲摺節は、稲作の発祥地にちなんで古くから字百名で受け継がれている。
8名で踊る前踊りは昭和3年に作られ、その後、型が変えられ現在に至っている。
前踊り8名で、天美津(アマミツ)が三穂田に田のこしらえ方、籾の播き方から収穫までの手順を教え、豊かに実った稲の刈り取りを祝う踊りを行う。
稲摺節の曲にあわせて主ヌ前を先頭に杵持ち2名、稲摺2名、ユイ持ち1名、臼かつぎ1名、赤髪1名、パーランクー打ち1名計9名が踊る。
浦原の稲の豊作の様子から、稲すり、米つき、ゆい持ちで作業の動作を表現し収穫の喜びを表現している。主ヌ前はくば扇で稲すり、米つきをあおぎ、赤ヒザーはトツクイをかついでパーランクー打ちとともに、おもしろおかしく踊る、臼かつぎは臼を置いて後は手拍子とかけ声をかける。
稲摺節は、南城市玉城が稲作の発祥地であると同時に、字百名で踊られ、字民の誇りとされている。

百名の長者の大主 南城市指定無形民俗文化財

●長者の大主とジレー大主

長者の大主が、旧暦8月10日の吉日に子、孫をひき連れて畑めぐりをする。そのとき、国廻り中の大主に会う。
ジレー大主にこんな年寄りが何をしているのかと聞かれ、長者の大主は作物の出来具合を見に来たと答える。ジレー大主は天美津の伝えの五穀の種を伝授してその作り方を細かく教える。
長者は子孫と共におし載いて子孫の踊りをお目にかける。子供たちは御前風と扇舞して、三男が口説ベーシを踊る。ジレー大主はすばらしい出来ばえとほめて、これから東方の村々巡りに行くと立っていく。長者はそれを見送ってから子や孫を引き連れてスリサーサーを繰り返しながら退場していく。
この長者の大主は古くから伝授されたといわれ、旧暦の8月10日に生まりの御願(ウガン)に演じられてきた。他の御願でも大主は演じられているが、字百名の長者の大主は、独特の舞踊であり、芸能の変遷の過程を示すものである。

前川の長者の大主 南城市指定無形民俗文化財

●長者の大主とアマミキヨ

沖縄本島各地で祭りなどに演じられる祝賀の芸能で、集団演舞のひとつである。
白髪の老翁の姿をした長者の大主が右手に扇子、左手に杖を持ち後ろに子供と孫を現す黒地紋服姿の二才(青年)と、振袖姿の若衆(未成年者)を従えて、御嶽や殿(トゥン)の前庭で祝言を述べる。
祝言は、百二十歳の齢を願うわが身は、大勢の子孫にかこまれて幸せであることを述べ、国の繁栄を讃えて予祝する。
側に控えた二才(青年)や若衆が次々に立って村の繁昌を願って「豊年口説」などの祝賀の踊りを演じる。
字前川に伝わっているこの演舞は、大主が大勢の子孫を引き連れて畑めぐりをしている時、アマミキヨに出会い五穀の種物を授かり万人に広げるようにたのまれる。百七歳の大主は、アマミキヨより長者の位を戴く長者の大主は、自分の子供、親雲上、筑登之、三者に言いつけて種物を万人に広げさせる内容になっている。

前川の寄鍬(ユシグェー) 南城市指定無形民俗文化財

●伝えられる農村風景

徳元佐二氏(安舎慶小)によって、「寄鍬」という芸が真和志間切上間村より伝授されたのが嘉永6年(1853年)である。
「寄鍬」は、当時の農作業の状況を演劇化したもので、字前川によって保存され、今日に至っている。
出演人員は、24名で構成されている。鍬で畑を耕し、ウズンビラで田を掘り起こし一生懸命に働く農民たちの姿、指笛を吹く者、鐘を叩く物、声を張り上げる者まさしく農村風景を舞踊化あるいは劇化したように思われる。

前川のアヤグ  南城市指定無形民俗文化財

●協同の力を表現

アヤグの踊りは、宮古のアヤグ節の歌詞に農村青年の雄姿を振り付けしたものである。
服装は、頭に紫の鉢巻(マンサージ)をむすび、長袖ジバンに黒帯びでたすき掛(マヤーガキ)をし、足には白黒の縦縞のキハンを巻き腰の右後には、煙草入れ(フジョー)を下げる。
このアヤグは、西暦1872年(明治6年)頃、前川村の赤嶺治八翁が首里の御殿つとめの頃、前川村で創作されたもので、農作業を終えて帰りの若者達が夕暮れ時に広場などに集まり、腕比べや力試しの雄姿を舞踊化したものと言われている。男踊りとして力強く、団結して働く青年、農村の発展は協同の力が第一だということを表現した踊りである。

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●協同の力を表現

アヤグの踊りは、宮古のアヤグ節の歌詞に農村青年の雄姿を振り付けしたものである。
服装は、頭に紫の鉢巻(マンサージ)をむすび、長袖ジバンに黒帯びでたすき掛(マヤーガキ)をし、足には白黒の縦縞のキハンを巻き腰の右後には、煙草入れ(フジョー)を下げる。
このアヤグは、西暦1872年(明治6年)頃、前川村の赤嶺治八翁が首里の御殿つとめの頃、前川村で創作されたもので、農作業を終えて帰りの若者達が夕暮れ時に広場などに集まり、腕比べや力試しの雄姿を舞踊化したものと言われている。男踊りとして力強く、団結して働く青年、農村の発展は協同の力が第一だということを表現した踊りである。

玉城の獅子舞 南城市指定無形民俗文化財

●村を護る

字玉城の獅子舞は、古くからの伝承で、むらの守り神として信仰されてきた。
獅子舞を上演する際には、字民が祈願をして演じたようである。現在、字玉城以外で演じる場合は、屋号ナーカで祈願をし獅子を持ち出して舞を演ずる。
鐘、三味線、ショーグに合わして、先導者が自由自在に獅子を舞いさせる。

志堅原の醜童(シュンドウ) 南城市指定無形民俗文化財

●受け継がれる芸能

醜童は、琉球古典舞踊として演じられている。特にこの踊りは仮面を顔につけているのが特徴である。
この踊りはシュンドウ節、ソレカン節、ヤレコシノ節の3つの節で構成されている。 美女2人と醜女2人が胴衣下袴姿で登場して、美女は自分自らの美しさを誇り、醜女は自分自らの貞操を自慢して互いにゆずらないが、ガビジラ(紙面)をつけた醜女はあまりに醜く観客の笑いを誘う。醜童の踊りは他の字でも多く演じられている。

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2011年9月26日

知念地区無形文化財

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2011年9月26日

佐敷地区無形文化財

佐敷地区無形文化財

津波古の棒術

 南城市指定無形文化財

津波古の獅子舞

 無形文化財

外間のミルク

 無形文化財

手登根古式エイサー

 南城市指定無形文化財

ティンベーとカマンティー

 南城市指定無形文化財

アマンチュー(天人)

 南城市指定無形文化財 

津波古の棒術  南城市指定無形文化財

字津波古の棒術は、歌三線にのせて演ずるメーカタ(舞方)にはじまり、打ちならすドラに合わせて演ずる一人棒、二人棒、三人棒、四人棒、五人棒の組棒がある。勇壮な棒術はかつて若者の憧れの演舞として好んで演じられていた。
津波古棒術保存会ホームページ
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津波古の獅子舞

字津波古の獅子舞は、お盆後の野祓い(ヌーバレー)と八月十五夜で演じられてきた。伝統的な獅子舞は「立雲節(たちくむぶし)」にのせて演ぜられる。獅子ワクヤーが三線に合わせて、ふさのついた玉で眠れる獅子を起こしあやつるが、そのうち獅子自らが玉にじゃれて遊ぶというもの。勇壮かつ無邪気な動作が見る者を楽しませてくれる。
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外間のミルク

ミルク(弥勒)とは、海の彼方から五穀豊穣をもたらす存在として、沖縄全域に伝承されている来訪神のひとつ。字外間では大きな字行事の前にミルク(弥勒)を迎えて吉事の到来を祈る。旗頭を先頭にしてミルク(弥勒)がミルクユガフ(弥勒世果報)を願い、集落内を行進する。
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手登根古式エイサー  南城市指定無形文化財

「遊び念仏」ともいわれ、送り盆の夜に行われる精霊送りの集団舞踊。旧暦の7月15日の夜、若い男女がノロ殿内に集まり、各家庭をまわる。近年では三線も使われるが、本来は鐘と太鼓、鼓の打楽器に合わせて念仏囃子を唱える古式豊かなエイサーとして踊り継がれてきた。
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ティンベーとカマンティー  南城市指定無形文化財

沖縄の古武術がたくみに取り入れられた字屋比久の民俗芸能。ティンベー(盾)・長刀を持った者と鉾を持った者との戦いをティンベー、草刈り鎌と棒の戦いをカマンティー(鎌の手)と呼ぶ。旧歴の7月17日、8月15日の行事に行われている。
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アマンチュー(天人)  南城市指定無形文化財

字津波古に伝わる民俗芸能。畑を牛にすかしている福人の大主の前にアマンチュー(天人)が現れる。福人の大主は五穀の種子を賜り、さらに長者の大主の位を授けられ、子や孫とともに一家の繁栄を祈るというもの。アマンチューは二人一組の肩車状態で演じられる。
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